悪い執着
「執着」という言葉は、仏教では基本的には悪い言葉とされていますが、基本的には自分もそう思います。お金に対する執着や、肩書きに対する執着を持ち続けると、幸せにはなれないと感じます。
「バガボンド」という漫画があります。平たくいうと「宮本武蔵」が剣士として最強になるまでの物語で、特にバガボンドでは、宮本武蔵の心の葛藤が描かれます。
武蔵は常に「自分は強いのか」という執着(作品中では「我執」と表現)にとらわれます。その結果、心の中で常に自分は強いのかという答えのない問答を繰り返し、(楽しく)「笑う」ことができなくなります。
私は、武蔵は「悪い執着」にとらわれたのだと解釈できます。
悪い執着の正体=アラインメント問題
それでは、悪い執着とは何かというと、「アラインメント問題」ということになると考えています。アラインメント問題とは、目的とその下の手段の一致に関する問題です。
例えば、会社である企画を通したいとします。企画を通すために、議論をする場合、当たり前ですが、議論に勝つことが目的ではありません。議論には負けたけど、企画を通すこともできます。議論はあくまでの手段です。
アライメント問題とは、手段であるはずの議論に勝つことが目的化されてしまう状態です。つまり、手段が目的化されます。手段が目的化し、それに執着することは、よくない執着だと考えます。
もう1例出すと、「お金」です。お金は一般的には手段です。これが目的化し、お金に執着をすると、幸せにはなれないことが想像できると思います。
つまり、手段を目的化し、それを達成しようとするのは、悪い執着ということができます。
良い執着
ではいい執着とはなんなのか。それは本来の目的に執着することです。これは基本的には根源的な人間の感性から溢れ出ることが多いと思います。
例えば、家族と楽しく過ごしたいとか、XXをもっと上達させたいとか。子供が思うような無邪気な夢だとも考えていいかもしれません。子供はYYで成功したいとか、思わないと思います。なぜ成功したいのかというと「幸せになりたい」「楽しく過ごしたい」からです。
なぜ手段に執着すると辛いのか
手段は必須ではないからだと思います。例えば、「相手に勝つ」ということは手段ですが、勝っても、目的を逃すということはありえます。目的を達成するのに、手段は必要ですが、その手段が必須であるわけではありません。無数にある中の1つということが多いと思います。にも関わらず、必須ではないのに、必須だと思い込んで、それに執着し、達成しようとする。これが手段に執着すると、辛くなる理由だとおもいます。
仕事も、スポーツも、人生を楽んだり、家族と楽しく過ごすための手段です。そう考えると、それらに執着するのは良くなく、「楽しく過ごす」ということに執着した方がいいのだろうなぁと感じたりします。


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